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京都の西芳寺

Category: 建築  

京都の「西芳寺」は、京都市西京区にある臨済宗の寺院で、「天竜寺」の境外塔頭である。一般に、「苔寺」の通称で知られている。
伝承によれば、第31代「用明天皇」の皇子「聖徳太子」の別荘で、阿弥陀如来像が祀られていたという。
奈良時代に至って、第45代「聖武天皇」の勅願を得て「行基」は別荘を寺へと改めた。法相宗寺院で「西方寺」と称した。
平安時代の初期の806年には、第51代「平城天皇」の皇子「真如法親王」が草庵を結び修行した。
鎌倉時代には、摂津守「中原師員」が再興し、「西芳寺」と「穢土寺」に分けられ、招請された「法然」によって浄土宗に改宗された。鎌倉幕府の第5代執権「北条時頼」が「桜堂」を建立したが、荒廃していった。
室町時代に、近くの「松尾大社」の宮司「藤原親秀」が、1339年に高層であり作庭の名手「夢窓疎石」を招請して禅寺として再興した。この時に、「西芳寺」と「穢土寺」は統一され、「西芳寺」となった。
応仁の乱の1469年に、西軍の攻撃によって焼失し、1485年には洪水によって被災し、「本願寺」の「蓮如」によって再興された。
1568年には、丹波国の柳本氏による兵乱によって焼失し、織田信長が「天龍寺」の「策彦周良」に命じて再建された。
江戸時代にも、二度の洪水によって荒廃し、元は枯山水であったが荒廃によって、江戸時代の末期に庭園が苔で覆われた。
明治維新の廃仏毀釈によって、境内地は縮小され、1878年に再興された。(下の境内図)

境内図 

1928年に一般公開され、1969年に「本堂(西来堂)」(下の写真)が再建された。

本堂 

この建物は、「村田治郎」京都大学名誉教授の設計で、内部の襖絵は「堂本印象」画伯によって描かれている。本尊は、「阿弥陀如来」を祀っている。
本堂の奥に、1978年に建立された「三重納経塔」(下の写真)が建っている。(伸和建設ブログより)

三重塔 

この塔には、信者の写経を納めていて、本尊は「薬師如来」である。
庭園は、「夢窓疎石」の作庭で、上段の「枯山水」と、下段の「池泉回廊式庭園」から成り立っています。
ここでは、「池泉回廊式庭園」に建っている建物を紹介します。
「方丈」の建物脇から庭園に入り、「黄金池」(下の写真)に沿って通り行きます。

黄金地 

「黄金池」の真ん中にいくつかの島があり、手前が長嶋、奥が朝日ヶ島である。
最初にたどり着くのが、「少庵堂」(下の写真)である。

少庵堂 

1920年に建立され、千利休の養子で女婿の茶人の「千少庵」の木像を祀っている。
黄金池に沿って進むと「湘南亭」(下の写真)の茶室があります。

湘南亭 

「夢窓疎石」の時代に建てられたが、その後荒廃していたのを、「千少庵」によって再興されたと伝えられている。屋根は柿葺きで、L字型の平面を有する。庭に向かって張り出す広縁は、舞台造りである。幕末に、「岩倉具視」がかくまわれていたことで知られている。
「黄金池」に沿ってさらに進むと、「潭北亭」(下の写真)があります。

潭北亭 

「潭北亭」は、1928年に陶芸家の「真清水蔵六」から寄進された茶室である。
庭園の上段にある「枯山水」では、「洪穏山石組」(下の写真)が有名である。

枯山水 

奥の斜面の石組みが、「龍門瀑」である。
下は、「西芳寺」の「池泉回廊式庭園」を映像です。


(youtubeより転載)
今回は、「wikipedia」、「西芳寺サイト」他を参考に紹介しました。

今回は、ここまで!!

☆参考

新版 古寺巡礼京都〈36〉西芳寺

西芳寺 (京の古寺から)


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 2018_02_04

京都の萬福寺

Category: 建築  

萬福寺は、京都府宇治市5ヶ庄に黄檗宗大本山の寺院である。黄檗宗は、三禅宗のひとつで、「穏元隆琦」によって開山された。「隠元隆琦」は、1654年に来日し、1661年に開創し、1679年ごろにほぼ完成した。この寺院は、中国様式(明時代の末期頃の様式)で作られ、伽藍は、西を正面とし、左右相称に整然と配置されている。(下の図)

境内図 

この寺院の境内に入るには、道路に面した「総門」(下の写真)を潜って入る。

総門 

「総門」は、1661年に建立され、瓦屋根の中央部が高く、左右部分を低く段差を設けている中国風の建物である。屋根上の左右にのっているのは、マカラ(魔加羅)でひれの代わりに足が生えている。
「総門」をくぐると右手に「放生池」があり、その先に「三門」(下の写真)がある。

三門 

「三門」は、1678年に建立された、二重門である。日本の禅宗寺院の「三門」は、一般的に「五間三戸」であるが、ここの「三門」は、「三間三戸」の建物である。
「三門」の先に、「天王殿」(下の写真)がある。「三門」に対して一直線に配置されている。

天王殿 

この「天王殿」は、1668年に建立され、瓦葺きの一重入母屋造りである。本堂の手前にこのような堂を置くのは、中国式の伽藍配置である。日本では、珍しい「弥勒菩薩」の化身である「布袋」(下の写真)の像を安置している。

布袋 

「天王殿」の先には、日本の一般的な寺院の「本堂」、「仏堂」にあたる「大雄宝殿」(下の写真)がある。

大雄宝殿 

「大雄宝殿」は、1668年に建立され、瓦葺きの入母屋造りの一重裳階付きである。建物の前にあるのが、白砂を敷いた「月台」である。
この「大雄宝殿」の奥にあるのが、「法堂」(下の写真)である。

法堂 

「法堂」は、1662年に建立された、瓦葺きの一重入母屋造りである。
開山「隠元隆琦」は、中国明時代の1592年に、福建省福州府に生まれ、29歳で仏門に入り、46歳で故郷の「黄檗山萬福寺」の住職になった。1654年に、弟子の「也嬾性圭」が渡日の途中で遭難によって亡くなったため、たびたびの招請に答えて、来日した。30名の弟子と共に来日したが、始めは長崎の「興福寺」、次いで摂津富田の「普門寺」に住したが、3年目になると中国の弟子たちから帰国の要請があり、帰国を希望したがかなわず、1658年に、江戸に趣き「徳川家綱」に拝謁し、1660年に山城国宇治に土地を与えられ、新しい寺が建立されることになり、日本に骨を埋めることを決意した。この寺に、故郷の寺と同名の「黄檗山万福寺」と名付けられた。

今回は、「Wikipedia」他を参考に紹介しました。

今回は、ここまで!!

☆参考

古寺巡礼京都〈19〉萬福寺

開運切り絵『七福神・布袋尊』 和紙(生成民芸紙) はがきサイズ ラミネート加工 Seven Deities(Gods) of Good Fortune 仏像画 仏画

萬福寺の普茶料理

萬福寺の梵唄~黄檗宗声明の世界~


 2017_12_25

福井の永平寺

Category: 建築  

「永平寺」は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院である。「總持寺」と並ぶ日本曹洞宗の中心の寺院(大本山)である。山号は、「吉祥山」と称す。
「永平寺」の開山は、曹洞宗の宗祖「道元」によって行われた。「道元」は、1243年に越前国の土豪「波多野義重」の請いにより、京都深草の「興聖寺」を離れ、「吉峰寺」に招聘された。
1244年に、「吉峰寺」より里に近い所に「傘松峰大佛寺」を建立し、1246年に「吉祥山永平寺」と改名した。その後、「2世弧雲壊奘」、「3世徹通義介」のもとで伽藍の整備をすすめられたが、その後、外護者波多野氏の援助が弱まり衰退した。さらに、1297年に火災に遭ったが「5世義雲」が伽藍を復興し、中興の祖となった。1473年の「応仁の乱」の余波で、全山焼失した。「殿閣一新」の復興まで100年の年月を要した。現在の諸堂は近世以降のものである。(下の図)

伽藍 

一般的な参拝は、「龍門」から行いますが、ここでは、「唐門」(下の写真)からのルートで建物の紹介をします。
勅使門 

この門は、1839年に再建された、銅板葺で、向破風を持つ「唐門」であるが、普段は使用されていないが、年に一度年越の4時間だけ一般に開放されている。この「唐門」は、「勅使門」とも呼ばれている。この門の奥の山の上の方に「山門」(下の写真)がある。

山門 

この門は、1949年に改築された、「永平寺」最古の建物である。禅宗様の間口9間、奥行き5間の楼門である。七堂伽藍のひとつで、「中雀門」、「仏殿」、「法堂」が一直線に並び回廊によって結ばれている。「中雀門」を挟んだ奥に「仏殿」(下の写真)がある。

仏殿 

1902年に改築された、二重屋根で、床は石畳式の建物で、七伽藍の中心をなす堂宇である。
「仏殿」の奥にあるのが、「法堂」(下の写真)である。

法堂 

1843年に改築され、七堂伽藍のもっとも高い位置にある堂宇で、貫主が説教をするための道場である。これらは、「回廊」つながれているが、「東回廊」の脇にあるのが、「大庫院」(下の写真)である。

大庫院 

1930年に改築され、入り母屋造りの近代木造建築で、地下1階、地上3階建てである。建築当時のエレベーターが現存してあり、稼働中のものとしては日本最古のものと言われている。
反対側の「西回廊」脇にあるのが、「僧堂」(下の写真)である。
僧堂 

1902年に改築され、座禅修行のために使用される建物である。七堂伽藍は、これらの他に「浴室」、「東司」が入る。

今回は、「Wikipedia」、「週刊古寺をゆく44」他を参考に紹介しました。

今回は、ここまで!!

☆参考

週刊古寺をゆく 44(永平寺)

NHK特集 永平寺 [DVD]


 2017_11_30


和歌山県日高郡日高川町に、能や歌舞伎、浄瑠璃等の演目の「安珍・清姫伝説」で有名な天台宗の「道成寺」がある。
「道成寺」は、701年に「文武天皇」の勅願により、「紀大臣道成」が建立し、「義淵僧正」を開山とする。本尊は、「千手観音立像」であり、日本最古と言い伝えられている。
1978年以降、数次にわたって発掘調査が行われ、奈良時代の「金堂」、「塔」、「中門」、「講堂」、「回廊」の跡が確認され、「法隆寺方式」(下の図)の配置であることが分かっている。
法隆寺伽藍 
1585年に、戦火によって多くの堂宇を焼失し、後に再建されて現存する「仁王門」、「三重塔」、「本堂」は、創建当初の「中門」、「塔」、「講堂」の跡地に建てられている。(下の図)

道成寺境内図 

現在は、創建当初の「金堂」と「回廊」は、再建されないままになっている。
「道成寺」最初の建物は、62段の階段の上にある「仁王門」(下の写真)である。

仁王門 

「仁王門」は、1694年に再建されて、1993年に塗り替えられてきれいになっている。
「仁王門」を潜ると、正面に「本堂」(下の写真)が見える。

本堂 

「本堂」は、創建当初の「講堂」の位置に1397年に建築され、1655年には屋根の葺き替えを、1812年から1815年には、改築に近い大規模修理が行われた。さらに近年の1985年から1991年にかけて、解体修理が行われ、中世の姿に再建した。入母屋造りの本瓦葺き、桁行7間、梁間5間の建物である。
「本堂」の右手前に「三重塔」(下の写真)が建っている。

三重塔 

「三重塔」は、創建当時の位置に1763年に再建された。高さが20M、総檜造りの建物である。
上の写真の右側の立ち枯れた榁の木のあるところに、この木を石で囲んだ「安珍塚」(下の写真)がある。

安珍塚 

「安珍・清姫伝説」は、創建から230年経った、928年の物語でる。大筋は、参拝の途中に一夜の宿を求めた僧「安珍」に「清姫」が懸想して、恋の炎を燃やした。しかし約束を破られ裏切られたと知るや「清姫」は大蛇となって「安珍」を追い廻した。最後は、「道成寺」の鐘の中に逃げた「安珍」を焼き殺すという悲恋の物語であり、「法華験記」に記されいる。今は、「道成寺物」として能楽、人形浄瑠璃、歌舞伎などで知られている。

今回は、「Wikipedia」、「週刊古寺をゆく26」、「道成寺HP」他を参考に紹介しました。

今回は、ここまで!!

☆参考

安珍と清姫の物語 道成寺 (日本の物語絵本)

写真集『道成寺』 (花もよ叢書6)


 2017_10_27

平泉の中尊寺

Category: 建築  

「中尊寺」は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院である。山号は「関山」、本尊は、「釈迦如来」である。
寺伝によると850年に、円仁(慈覚大師)が開山したのが始まりとされ、859年に「清和天皇」から「中尊寺」の号を賜った。時が過ぎた1105年に、「堀河天皇」の勅命を受けた奥州藤原氏の初代「藤原清衡」が、「中尊寺」の堂塔伽藍を整備した。当初建立した伽藍は、堂塔40余宇、僧坊300余という壮大な規模のものだった。
しかし、1337年ない、野火による大火で堂塔伽藍のほとんどを焼失し、「金色堂」、「経蔵」だけが残った。
さらに時が進んだ1689年には、奥州を旅した「松尾芭蕉」が、「中尊寺」の「金色堂」を見て嘆くほど荒廃がひどくなっていた。芭蕉がその時に読んだ句が、『夏草や兵どもの夢の跡』であった。
現在の「中尊寺」の伽藍(下の図)は、陸羽街道(国道4号)から西側の山に向かって入り、「月見坂」と呼ばれる急な坂を上っていく。
境内図 

「月見坂」の参道を上った丘陵上の右側の本坊内に「本堂」(下の写真)がある。

本堂 

この建物は、1909年に建立された建物である。
この「本堂」からさらに西側に行ったところに「旧覆堂(きゅうさやどう)」(下の写真)がある。

旧覆堂 

この建物は、風雨から「金色堂」を守るために、平安末期に保護施設として簡単なものとして作られたが、1288年に鎌倉幕府の7代将軍「惟康親王」の命によって全体を覆う様な建物に建て替えられた。さらに室町時代に入っても建て替えられて、残ったのが今の「旧覆堂」である。
この「旧覆堂」は、1962年に建てられた鉄筋コンクリートの「覆堂」に移るまでの500年の間、この中に「金色堂」があった。
この「旧覆堂」から「本堂」のある東側に戻った右手の階段うえに「金色堂覆堂」(下の写真)がある。

金色堂覆堂 

この「覆堂」の中にケースに入った「金色堂」(下の写真)がある。

金色堂 

この建物は、「藤原清衡」が建立した阿弥陀堂で、1124年に上棟した。「金色堂」は、長い間に金箔は剥げ落ち劣化がひどいので1962年から1968年にかけて解体修理を行い、当初の姿に復元した。この建物は、正面、側面3間で宝形造りで、屋根が木瓦葺きである。
この「金色堂」を外部に再現されたものが、「えさし藤原の郷」内にある。(下の写真)

金色堂(再現) 

1993年に、NHK大河ドラマ『炎たつ』の大規模オープンセットとして使用したものをそのまま残して歴史公園として整備して開園したのが、「えさし藤原の郷」である。
「中尊寺」の「金色堂」の近くに、国宝の一切経を納めていた建物の「経蔵」(下の写真)がある。

経蔵 

「経蔵」は、平安時代の古材を使用して鎌倉末期に再建されたもの考えられている。間口4.5間、奥行4.5間の宝形の単層造りの建物である。
境内の北方に位置する「中尊寺」の地主権現である「白山神社」の境内にあるのが、1853年に再建された「能楽堂」(下の写真)である。

能楽堂 

白山社祭礼に奉納される神事能の歴史は古いが、1849年の火災で焼失してしまった。それでもすぐの1853年に再建された。ドイツの建築家「ブルーノ・タウト」は、この建物を見て「この田舎風の典雅な建築物は、中尊寺で最も強い印象を与える」と書きしるしている。

今回は、「古寺をゆく4」、「Wikipedia」他を参考に紹介しました。

今回は、ここまで!!

☆参考

週刊古寺をゆく 中尊寺 4 小学館ウィークリーブック

週刊ニッポンの国宝100 10 中尊寺金色堂/慧可断臂図(チユウソンジコンジキドウ エカダンピズ)[分冊百科] (2017年11/28号)


 2017_10_07



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